ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。
・・・イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」するとユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
(ヨハネ福音書8:48-51、58-59)
相変わらず、ユダヤ人とイエス様とのかみ合わない論争が続きます。言葉は互いを理解する上で、大事な手段ですが、時にはとらえ方の違いにより通じないことがあります。ユダヤ人たちの実証主義と言いましょうか、目に見えるところ、自分達が理解する範囲でしか物事をとらえられないがゆえに、イエス様が示す真理を知ることが出来ません。そしてイエス様を排除しようと「サマリア人で悪霊に取りつかれている」と主張します。これは二つとも事実とは異なります。彼らの罪は、神様を敬い、神様から遣わされた救い主を受け入れず、悪霊扱いしたことでした。
これらのユダヤ人に対して、イエス様は、もう一度永遠の命を得るためのチャンスを与えます。それは、イエス様の言葉を守ることでした。しかし、医学的な「死」しか見えていないユダヤ人にとって、それは理解不可能なことだったようです。「アブラハムも預言者も死んだ。いったいあなたは自分を何者だと思っているのか。」と言うだけでした。
彼らは、イエス様が自分を誇っているかのように思っていました。それに対してイエス様は、ご自分に栄光を与える方は父なる神様であることを知っておられ、父なる神様の前で謙遜でした。と同時に遣わされた者としての自覚を持ち、それをユダヤ人たちに示されました。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」この言葉は、召命を受けたモーセが、神様の名前を尋ねた時に頂いた答えでした。(出エジプト記3:14)
不思議な表現ですね。目には見えないけれども「わたしはある。」のです。
ユダヤ人たちは、イエス様の語ることが理解できず、受け入れられませんでした。だから、イエス様に石を投げつけようとしました。
私たちも周囲の人々に福音を知らせようとして、理解されず受け入れられないことがあるかもしれません。その時はあくまで「私メッセージ」を伝えてください。「私は主を信じて喜んで生きています。」と。かみ合わない言葉で議論しないことです。私たちの生き様そのもので導くのです。
「わたしはある」とおっしゃった主は、今なお生きておられ、私たちを導き、励まし、慰めてくださいます。めげることなく、主が語られた言葉に信頼し、歩みを進めてまいりましょう。主よ、あなたを崇め賛美します♪