主の十字架

メッセージ

 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちもあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

           (ルカによる福音書23:26,33-35)

   最初に心に留めたいのは、主の十字架を背負わされたシモンという人のことです。たまたま通りかかったということで、そんな憂き目に出会いました。「お前がかつげ」と引っ張り出されて、泣きたい気分であったろうかと想像出来ます。「なぜ、よりによって自分が~」と思ったことでしょう。しかし目の前に足を引きずりながら十字架の丘に向かっていく、イエス様の背を見ながらついていくなかで、彼の中に変化が起きたようです。

割に合わない重荷を負うことを通して、大切なことがわかってくることが人生にはあるのだとシモンは悟ったようです。(息子たちが初代教会のメンバーになっています。)

 

 罪のないイエス様は犯罪者と共に十字架につけられました。多くの受刑者が、苦しみの中でローマを呪い、周囲に暴言を吐いて無様な姿をさらしました。しかし、イエス様にはそんな様子が見られないどころか、驚くべき言葉を口にされたのです。「父よ、彼らをお赦しください。」と。ここでイエス様が言われる「彼ら」とは、この場面では、十字架にかけたローマ兵であり、ご自分を十字架へと追い込んだ祭司長、議員、また群衆のことです。「彼ら」は、こぞってイエス様を嘲り「もしメシアなら、自分を救うがよい」と言いました。イエス様にはそうする力がありましたが、そうなさらなかった。もしイエス様が十字架から降りてご自分を救っていたら、十字架の死も復活もなくなり、私たちは今も罪と悲惨の中に置かれてしまいます。神さまの裁きを免れ得ないでしょう。イエス様は私たちの救いのために十字架の上に留まられたのです。

 

 イエス様のとりなしの祈りは、今を生きる私たちのためでもあります。自分の罪を自覚せず、神さまのさばきを受けるしかなかった私たちのためにイエス様は祈られ、私たちの代わりに十字架で死なれたのです。

そのとりなしの恵みを受け取ったのが、十字架につけられた犯罪人の一人でした。死の土壇場で我に返ります。神さまを恐れて罪を告白することで、永遠の命に至るようになります。イエス様から「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。十字架のもたらす恵みを覚えましょう。