サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいた。サウルは主に託宣を求めたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。サウルは家臣に命令した。「口寄せのできる女を探してくれ。その女のところに行って尋ねよう。」家臣は答えた。「エン・ドルに口寄せのできる女がいます。」サウルは変装し、衣を替え、夜、二人の兵を連れて女のもとに現れた。
(サムエル記上28:5-8)
これは、悲しくも恐ろしい箇所です。かつて国内から霊媒を追い出したサウルが、主の答えを期待できずに、その霊媒の女に伺いをたて、自らの破滅を知らされます。
ペリシテ軍の陣営を見たサウルは恐れおののいておりました。11章にあるヤベシュの人々を救い出した際の勇気はもはや見られません。そればかりか、主ご自身サウルに何もお語りにならなくなっていました。ヨセフは夢によって(創世記37章)、エルアザルはウリムによって(民数記27章)、ダビデは預言者によって(サムエル記下7章)、それぞれ神さまの御心を教えられましたが、サウルにはこの3つのどの方法によっても何も語ってもらえず、神さまの忌み嫌われる霊媒に頼ろうとしたわけです。
王として、自分が禁令を出した霊媒のもとに、変装までして出かけました。警戒心を解かなかった霊媒の女でしたけれども、命の安全を保証されたので、サウルの願い通りに死んだサムエルを呼び出します。しかし、サウルが聞いたのは、サムエルが生前彼に宣告した同じさばきの言葉でありました。それに加え、神さまがあえて隠されていたサウルと子ども達の死とイスラエルの敗北とまでが明らかにされてしまいます。この残酷な事実を知ることがないように、霊媒を禁じておられた神さまの愛を私たちは思わざるをえません。覆い隠されているものを露わにするというむごさ!
余りの恐ろしさと心身の消耗ゆえに、サウルはその場で倒れてしまいます。霊媒の女は、神さまから最も遠い存在であったにもかかわらず、サウルを憐れまずにはおられませんでした。食事を準備し、それを食べて力をつけるように勧めたのです。いったんは食事を拒んだサウルでしたが、家臣の勧めもあり、それを口にして女のもとを立ち去りました。
信徒の友2月号に、この霊媒の女について記事が掲載されています。そこでサウルに憐れみをかけた霊媒の女を「よきサマリア人」のようであると言っています。なるほど、そういう見方もできるんだ、と思いました。
サウルの行動で私たちが知らされるのは、「何を頼みとして生きるか」ということです。いざという時の信仰があるかどうか、それが問われています。私たちは自分の無力さに打ちひしがれてしまうことばかりです。しかし、その時、何を仰いで生きていくか。「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)御言葉に励まされます。自分にではなく、主に望みをおいて生きましょう。