「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。・・・」 (サムエル記上8:5-7)
「王を立ててください。」と、イスラエルの長老を始めとする人々がサムエルに迫った様子が記されています。一つには、祭司が裁きを行う体制が、もはや機能しないと感じたこと。それはサムエルの息子たちが、正道を歩むことなく、不正に手を染めていたことに対する批判もありました。また、神さまを主(主君)とすることよりも、他国のように自分たちの中から王を輩出して、そのもとで裁きが行われることこそ最善だと考えていたことによります。だからこそ、その申し出を受けたとき、彼らの言い分はサムエルの目には悪と映ったのです。神さまをないがしろにする行為だと。
けれども、主に祈ったときに思いがけず「民の声に従うがよい。」との答えがありました。民のしてきたことが、主の御支配を無にすることだったと言うのです。「彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。」と言明します。出エジプトの恵みが簡単に忘れ去られ、主を退け王を立てようとする!!
サムエルは王を立てたら、どんなに厳しい状況に陥るかを具体的に説明します。「あなたたちは王の奴隷となる。」とまで言い切っています。しかし、民はサムエルの声に聞き従おうとせず、「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」と言い張りました。主は「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と。
ここでの民の問題点は、主が定め導いてくださる「みこころに沿った生き方」を捨てようとしたことです。自分たちの主張の先に、困難や苦境が待っていたとしても、とりあえず「他の国」と比較しても遜色ない体制作りこそが最善、最強だと思ったことです。人間の知恵が優先されています。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)の聖句が警鐘のように響いてきます。
これは、私たちも陥りやすい「罠」ではないでしょうか。信仰者として生きると、いわゆる「貧乏くじ」を引きやすい。なぜなら「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(マタイ5章)は、踏みつけにされる危険をはらんでいるからです。しかしイエス・キリストに従おうとすれば、その生き方が模範になります。その幸いと恵みをしっかりと味わいたい。