喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。(詩編100:2)
兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
(ローマ12:10-11)
このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
(ヘブライ12:28)
「主に仕える」という言葉は余りピンとこないと思われる人もいるでしょう。私自身も「仕える」なんて自分になじまない言葉のように思われたことがあります。けれども、先週一週間の皆さんの働きについて言えば。まさに「仕える」日々でした。おかげさまでバザーは11万4千円の収益がありました。こうして実績が目に見える場合は嬉しいですし、よく分かります。けれども普段は「仕える」ことは地味すぎて分かりにくいことです。(なかなか評価されないだけに、自分だけ犠牲を強いられているような気にもなるからです。)私自身、今回のバザーにおいて様々な感情に揺り動かされることがありました。特にある程度の数量を焼きませんと、バザーに来てくださった方々の要望に応じられないとのプレッシャーがあり、平安を保つというわけにはまいりませんでした。(きつめの言葉を受けた方、おゆるしください。)「仕える」ということは難しいと思いました。
まず「仕える」と言った時に、相手を愛しているかどうかが鍵になってきます。「主に仕える」ということは「神さまを愛する」ことに他なりません。ではどうしたら、神さまを愛することが出来るのでしょう。まずは、神さまの愛に気づくことかなぁと思います。神さまは、私たちが愛する前から、私たちを愛してくださっています。恩知らずで、わがままで、欠点だらけの私たちを、あるがままに受け入れ、愛してくださっているのです。神さまの愛に気づくことから、神さまへの愛が始まります。そんな神さまの愛に気づくとき、私たちは喜びと感謝に満たされ、神さまを賛美せずにいられなくなるのです。
神さまと愛の絆で結ばれたら、今度は「隣人を愛する」のです。大切なのは順番です。まずは、自分自身をあるがままに受け入れ、愛する必要があります。どれほど弱く、欠点だらけだったとしても、神さまはそんな私たちを「神の子」として愛してくださっています。御国の世継ぎとして受け入れてくれています。欠点だらけに見える隣人も「神の子」なのです。
気をつけることもあります。神さまから愛されるために頑張る私たちは、愛することを仕えることを自分の努力の結果と勘違いします。しかし、神さまの愛に包まれて頑張る私たちは、頑張れること自体を感謝します。神さまの愛のうちで、あるがままに頑張って生きたいものです。