「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
(ヨハネ16:30-33)
イエス様と弟子たちとのやりとりの中で、主が弟子たちを思いやる言葉が記されています。弟子たちの気づきの遅さに対して「今ようやく信じるようになったのか」と言います。確かに、イエス様と共に過ごし、数々の奇跡を目の当たりにし、主のストレートな語りかけに応じた弟子たちにしては、「ようやく」と言えるかもしれません。しかし、これが人間の現実です。そして、主の逮捕時を想定した言い方、「散らされてしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。」は、確かにその通りになりました。
弟子の一人、ペトロなどは「どこまでもついて行きます。」と言いつつ、自らの発言を裏切る行動をとってしまいます。しかし、弟子たちの裏切りに出会うことを想定しながらも、主イエスは「わたしはひとりではない。」と言います。「父が共にいてくださるからだ。」と重ねて言います。
これは、私たちの信仰においても大切なことを教えています。私たちは、敵対する人々の間で時には孤独感を深めます。しかし、自分は「ひとりぼっちじゃない」と感じることが出来たら、そのところから立ち上がれます。それはどうしたら感じられるのでしょうか?神様とのつながりを確認できるのは、祈りです。「神様、助けて!」と声をあげる。または「イエス様、一緒にいて守ってください」と祈る。そうすることで、私たちは力を得、困難な状況をくぐり抜けることが出来ます。もちろん状況が好転する場合ばかりではありません。むしろ状況は変わらず、つらいままかもしれません。しかし、その中でも「なんとか生きられる」との勇気が得られるのです。それはこの自分を頼りにすることなく、主を頼りにする生き方を再確認するからです。主が「わたしによって平和を得る」と言い切っています。だから大丈夫。主の十字架はその為にも打ち立てられています。
また「苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」との励ましの言葉が私たちの心に響きます。一見、敗北のように見える十字架です。しかし、十字架にかかられたイエス様は罪の奴隷であった私たちを贖い、解放してくださいました。十字架は勝利のしるしとなりました。キリスト教会はこの十字架をいつの時代にも掲げてきました。この勝利の十字架によって、私たちには平安と勇気が与えられています。
十字架を見上げて、「ハレルヤ!」と主をほめたたえましょう。