わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
(ルカ福音書1:46-50)
人間の歴史上だれひとり経験したことのない経験をマリアはいたします。神の救い主が彼女から生まれるというのです。どうしてそんなことが信じられるでしょうか。マリアにはとうてい理解できないことでありました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は告げます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35-37節)
彼女はこの約束を受け入れました。「わたしは主のはしためです。御言葉どおりに、この身に成りますように。」(38節)神様の大いなる救いの御わざは、一人のおとめの受容の信仰をもって、この世に実現したのです。信仰は納得してわかるということから始まるのではありません。神様のご計画をそのまま受け入れることによるのです。たしかに戸惑うことがありましょう。マリアも「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)との天使の挨拶を受けたとき、戸惑い、この挨拶は何のことかと考え込んだとあります。あれこれ思案しつつ、神様の御心を問い、祈るのです。そうして神様からの答えを頂くのです。神様の言葉を思いめぐらす者に、神様はしるしを見せてくださいます。主はほむべきかな。
「主のはしため」という言葉に現されているように、マリアの基本姿勢は「へりくだり」です。私たちはともすると傲慢になり、人を見下したりします。時には神様に向かってさえ文句たらたらです。「神にできないことはない」と言われて、38節のように返答します。この答えにはマリアの決心と覚悟が詰まっています。天使の言葉通りになれば、ヨセフと周囲から不貞を疑われ、婚約解消となり、最悪の場合は石打刑になるかもしれません。しかし、マリアはそのようなことも覚悟のうえで、主の御前にへりくだり、主に従う信仰を告白したのです。
マリアは神様の憐れみを深く覚えています。神様はアブラハムに語られた約束の通り、失敗を繰り返す子孫への憐れみを決して忘れず、助けてくださいます。御前に低くされへりくだる小さき者や罪人を高く上げ、飢えている者を満ち足らせてくださいます。罪人を救うために、救い主イエス様を遣わしてくださるのです。マリアは神様の救いの御計画を知らされ、自分が救い主の母という特別な立場になって喜んだのではなく、神様が民を思い救ってくださることを喜んで心が満たされました。メリーXマス!