「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
(ヨハネによる福音書13:34-35)
遠藤周作が『聖書の中の女性たち』で、一人の少女の詩を紹介している。
わたしの咽喉が痛い時 あの子の咽喉も痛み
わたしが夜 咳をする時 あの子も眼をさまして咳をする
わたしがママから叱られて泣く時 あの子もわたしと一緒に泣いている
タ陽にうつるわたしの影法師のように あの子はいつもわたしと一緒だ
この少女にとって「あの子」はキリストだったという。咽喉の痛みを癒やすのでもなく、咳を止めてくれるのでもないが、一緒に「痛み、 一緒に「咳をし」、一緒に 「泣く」 キリスト。奇跡を行うことによってでなく、共にいることによって愛を示すキリストの姿が、この十一歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその淋しい病床で慰め、カづけたことでしよう。べツレヘムの幼子の姿は、私たちの主が、このような愛の持ち主であることを示すものです。「共にいることの素晴らしさ」 讃美歌21-533番。
忙しいことを言い訳に、私たちは近頃「用事」のためにだけ人と共にいることが多くなってはいないでしようか。キリストは「用事」のためにだけ、この世に来た方ではなかったのです。「救い」という用事のためだけならば、幼子の姿をとることも、三十年をナザレで過ごすことも、苦しみ、死ぬことさえ不必要だったのかも知れません。「赦す」という父なる神様のお墨付きを、人間に手渡すだけでよかったのかも知れません。愛ゆえに主イエスは人々と共に住み、その生活を分かち合ったのです。
実に、人間は赦されるにも値しませんでした。放っておかれてもいたしかたない人間を神様は見捨てませんでした。主イエスの地上での生活は、「どうでもいいような」人々、「放っておけばいい」と考えられた人々との温かいかかわりに終始した生涯でありました。それを歌い上げたのが、讃美歌21-280番「馬槽のなかに」であります。娼婦、税吏、子どもたち、病気に苦しみ、悲しむ人々と思いを分かち合い、席を共にする日々。
私たちは、主が十字架に向かう最後の時、弟子たちに与えられた新しい掟に心留めたく思います。「わたしがあなたがたを愛したように」と主は言われました。そう。主の愛に支えられ、導かれてここまで歩んできた私たちです。そして「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」私たちの愛の行為は微々たるものかもしれません。しかし主がなさったように「寄り添う」ことで私たちはその愛を示すことが出来るのです。教会は愛ある交わりの場!