「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
(ヨハネによる福音書13:21-27)
厳しい箇所です。「裏切りの予告」とは。イエス様は、だれが自分を裏切るのか、最初から知っていました。自分が弟子の一人に裏切られたことをご存じの上で、そこから逃げずに、その弟子を拒絶せず、十字架の道を進みました。
ここで興味深いのは、それがだれについておられるのか、知りたかったペトロが、イエス様に愛された弟子に尋ねるよう合図したことです。私たちも自分に害が及ばないように、うまく人を使って事柄を聞きだそうとします。結果しだいでは、いち早く危険から避難するつもりです。確かに、銀貨30枚でイエス様を売り渡したのはイスカリオテのユダです。しかし、
「あなたのためなら命を捨てます」と大言壮語したペトロも、大祭司の庭でイエス様のことを「知らない」と3度も否認したのです。(けれども、そのペトロを最後まで愛し通された、イエス様の愛の深さ大きさを私たちは知っています。)
ユダがイエス様からパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入りました。私たちがサタンにつけ込まれるのは、まさに一瞬なのです。だからこそ、主の祈りの中で「我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ」と祈るのです。イエス様は、何とかしてユダに裏切りをやめさせようとはせず、「今すぐ、しなさい」と言いました。ユダにそう言ったとき、何のことか分かった人はだれもいませんでした。私たちはどうでしょうか?
私たちもまた、主のみこころが分からないと、それを常識で穴埋めします。ここでも、「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」とあります。弟子たち同様、私たちは想定外のことをそのまま受け入れられません。何かしら、自分の思いつく範囲で想定し、そこに帰着して安堵するわけです。イエス様の十字架への道は、弟子たちの思いをはるかに超えた、神様のご計画でありました。そしてその道を主イエスは歩まれたのです。「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。」(詩編25:12)畏れつつ歩んで参りましょう。