イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
(ヨハネ福音書12:44-47)
イエス様を中心として、左と右とに分けられる構図がここにもあります。多くの人がイエス様のなさった奇跡を目の当たりにして、イエス様を信じました。しかし、ラザロの復活以降、イエス様を生かしてはおけないと殺害の意図を抱いた人々もいました。中には、12:42に「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」とあるように日和った人もおりました。イエス様をめぐる構図は2千年前も現代も変わらないと言えましよう。その中で私たちはどう生きるか、何を選択するのか、今朝のみことばは問うているように思います。
実は、議員たちがイエス様の信仰を言い表さなかったことには意味があります。信仰を言い表さなければ、迫害を受けることはありません。迫害の中でイエス様により頼むことがなければ、イエス様が救い主であることを知ることもありはしないのです。私たちがクリスチャンであるがゆえに迫害を受けることがあれば、それもまた幸いなのです。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 (マタイ5:10-12)私たちが迫害や白眼視されることで、より主に近くある者になるのであれば、それも幸いなのです。
主を信じる者は、暗闇の中にとどまることはありません。主は光として世に来てくださったのですから。また主は 「わたしの言うことを聞かない者は裁く」とか「滅ぼしてしまおう」とは考えておられませんでした。なぜなら、主は世を裁くためではなく、救うために来たからです。だから、急いで裁こうとはなさいませんでした。また主は、御自分の話した言葉の力を確信していました。なぜでしようか。それは父なる神様ご自身がお命じになった言葉だからでした。この地上に遣わされた者として、御自分の使命を果たされようとなさったのです。
私たちは裁きに耐えません。断罪におののくばかりです。しかし、主は弱く愚かな私たちを愛し通され、 恵みを注いでくださいました。「主よ、あなたは裁くのに遅く、恵みに富む方であることを感謝します。」