日本キリスト教団常陸大宮伝道所
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」                   (ヨハネ福音書11:38-42)
 
 イエス様は人間の常識に対して、時に憤りを覚えます。これからラザロを復活させようと、わざわざ墓に葬られてから来たというのに、マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と残念さを現すだけです。それに対して、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(25節)と言明されました。ご自分こそ、命を与える者であることを宣言されます。ラザロの復活です。またそれは、イエス様を信じる者は、たとえ死んでも、イエス様によって終わりの日によみがえることが示されています。  さらにラザロの死を悲しんで泣き悲しんでいる人々を見て、心に憤りを覚え、興奮したともあります。「イエスは涙を流された。(35節)のです。人々の諦めに対する、他には見られないほどのイエス様の感情の流出です。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者さえおりました。マルタとの会話でも、人間の常識にとらわれて、奇跡への期待が少しも見られないのに、憤慨なさっているかのようです。
 
 振り返ってみて、私たちの生活ではどうでしょうか? 死に直面して、人間は悲しみ嘆くことができるだけです。どんなに深く嘆いたとしても、やがて諦めるほかありません。「日にち薬」という言葉も。  しかし主イエスは諦めることをなさいません。死に対して「憤り」なおかつ激しく「興奮」します。主イエスは死と戦われる救い主だからです。死と闘うために、その身体をもって、全存在をかけて十字架への道を歩まれました。そして私たちは「永遠の命」にあずかる特権を得ています。なんという幸い、なんという恵み!
 「ラザロ、出てきなさい」主イエスは大声で叫ばれました。するとラザロが葬られたままの姿で出てきました。奇跡を目の当たりにした人々の驚きが想像出来ます。「死なないように」ではなく、「死んでも復活する」ことを目撃したのです。常識ではなく「超常識」の体験でもありました。
 私たちもまた、十字架の主に呼び出されて、死の墓から出ていくのです。「主よ、私のことも、死んでも生きる者としてくださり、感謝します。」

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