わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。
(ヨハネ福音書10:27-30)
イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とおっしゃいました。命をはってくださる主に従う幸いを覚えます。それに対し「わたしの羊ではない」ユダヤ人たちから拒絶されます。
たしかに当時のユダヤ人たちからすれば、イエス様のおっしゃることはことごとく「神を冒涜している」としか思えませんでした。「あなたは人間なのに、自分を神としているからだ。」と言います。実は問題点は明らかです。ヨハネ福音書は最初の書き始めから、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)と記しております。また、イエス様は神様だ、という書き方を様々な所でしております。ですから冒頭で引用した聖句も、それを明らかにしています。
しかし当時の宗教的指導者層にあたるファリサイ派や上流のサドカイ派は、この発言をゆるしがたいものとしてとらえます。イエス様に対して「もしメシアなら、はっきり言いなさい。」と詰め寄ります。彼らは自分たちが納得する答えを得ようとしているだけで、信じるつもりはありません。
彼らは「目が見える」と自認する罪に気づいておりません。
羊が声を聞き分ける、ということではヨハネ20:11のマグダラのマリアに現れたイエス様との会話を思い起こします。イエス様のご遺体が見当たらなく泣いていたマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と訊きます。園丁かと思ってかくかくしかじかと彼女は訴えます。その時イエス様が「マリア」と声をかけられます。彼女はすぐにその方がイエス様であることを悟ります。マリアの頑なな思い、生ける主ではなく、遺体となった主を求めるこだわりが打ち破られたのは、ただ「マリア」という愛に満ちた主の呼びかけによってでした。その一言がマリアを振り返らせたのです。主はご自分の羊の名を呼んで、彼女を死の絶望から命の希望へと導き出してくださったのです。死から命へ。墓の中の死者から復活者イエスへと。
イエス様を拒絶するユダヤ人たちがいる一方で、ヨルダンの向こう側に行った際には、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。(10:41-42)とあります。主イエスを信じ、主に従う者の生活とは? それはいかなる時でも、イエス様のことを聖書に記されている通り、忠実に話す者になることです。聖霊が助けてくださいます