五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2:1-4)
最初のペンテコステの出来事が記されています。主イエスは自分が十字架にかかられ、死んで復活し、天に昇ることを知っておりました。そして生前、弟子たちに助け主「聖霊」が来られることを語っておりました。
イエス様が天に昇られた後、弟子たちは寂しさを感じ、また先生がおられないという頼りなさを覚えていたかもしれません。しかし、めげてばかりはいられません。イエス様が約束していた「聖霊」を待ち望んで、集まり祈っておりました。そこに聖霊が降りました。
教会のいっさいのわざは「待つ」ことから始まります。弟子たちは、祈りつつ待っていたのです。そうして彼らは神様の霊を受けました。神様の働き人とされたのです。「祈りつつ待つ」信仰の大事なところです。
彼らの変貌ぶりには、周りの人々が驚き怪しみました。ガリラヤ出身の彼らがなぜ他の国々の言葉を話すのか?と。共通の言語を持つ、というのには、因縁があります。というのも、創世記11章において、人々は天まで届けとバベルの塔建設に着手しました。けれどもそれを喜ばなかった神様は、人々の言葉を互いに通じ合わないようにして、工事を中止に追い込みました。人々は全地に散らされたとあります。それがこのペンテコステにおいて共通の言葉をもつことが可能になりました。不思議です。
また、聖霊を受けてペトロは他の弟子たちと共に立ち、声を張り上げて語り始めました。人々を恐れ、主イエスを三度も知らないと言った弱いペトロはもうここにはおりません。彼は助け主である聖霊によって大胆に勇ましく「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。わたしたちは皆、そのことの証人です。」と説教したのです。ペトロの説教を聞いた人々は心打たれ、悔い改めて洗礼を受けた人の数は三千人ほどあったとあります。
それほどまでに聖霊の働きは大きいのです。
常陸大宮チャペル礼拝の最後に、派遣の言葉を宣言します。その中で「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と主イエスの言葉を用いています。真理といわれるものは、幾つもあるわけではなく、ただ一つです。イエス様ご自身と主のなさった救いのみわざこそ、唯一の真理です。聖霊の働きは、この真理を世の人々にことごとく悟らせ、救いに導くことなのです。そう言うと「だって、でも、どうせ」という言い訳が私たちの心に生じてしまいます。それを乗り越えて私たちに宣教のエネルギーを与えてくださるのも聖霊です。聖霊なる神様を頼ってよいのです。