しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。
(ヨハネ8:45-47)
イエス様とユダヤ人とのかみ合わない会話の続きです。自分たちの正義をアブラハムの子孫であることを根拠に主張するユダヤ人たち。それに対してイエス様はこう言われます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。・・・」(42-43節)父なる神さまとイエス様との関係について、聞こうともしない、知ろうともしないユダヤ人たち。だから、イエス様も口を極めて、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。」とまで言い切ります。対立の構図が見えてきます。 真理をよりどころにするには、イエス様を信じるほかないのです。 でも、それを拒んでいるユダヤ人たち。彼らの所属意識が問題になるのです。 ひところ、アイデンティティー(自分はどこに所属しているか)という言葉が流行りました。自分はいったい何者か、どこに立っているのか、それが問題だというのです。そこから「自分探しの旅」というのが始まり、目的地を見出せないまま、いまだに旅なかばという人までおりました。 さて。私たちはいったい何者でしょうか。どこに帰属しているのでしょうか。それを明らかにする為に、自己紹介では、まず名前を言います。年齢も明らかにする場合もありましょう。また自分がどこに住んでいるのかを言う場合もあります。しかし、重要なことは「私たちの本国は天にあります。」(フィリピ3:20)ということです。すなわち、主イエスの御言葉を聞いて信じる、神様に所属しているということになるのです。 > あんがい、このどこに属しているかをあまり考えずに日常生活を送っているのかもしれません。しかし、私たちキリスト者は「神に属する者」となり、それぞれの場に置かれています。そして置かれた場所にあって、花を咲かせ、豊かな実をみのらせる者とされているのです。 私たちは大事なことをあいまいにしてはいないでしょうか。「神に属している者としての自分」を大切にしていきたいですね。もちろん、キリスト者であることで八方ふさがりになってしまうこともあります。しかし、天窓は開かれています。そして、いつでも救いの御手が差し出されています。それを握り返せばいいのです。聞いて信じる者として生きましょう。