渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
(詩編96:1-2)
仮庵祭りの後半に登場したイエス様に対して、人々は論議します。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。・・・議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、・・・メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」などなど。イエス様の登場はそれほど衝撃的であり、捕らえようとしたが、手をかける者はいなかったとある通り、「主イエスの時」はまだ来ていなかったのです。けれども人々の心には「メシアが来られても、この人より多くのしるしをなさるだろうか」との思いも出てきました。
イエス様を快く思わない祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえるために下役たちを遣わした、とあります。その時もイエス様は人々を煙に巻くような言葉を発します。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と。え!見つけることがない、とはどういうこと?と混乱します。
しかし、そういう人々を前にしてイエス様は声を大にして、招きます。聖書に書いてあるとおり、ということではゼカリヤ書14:7-8を御覧ください。「ただ、ひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなくタベになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。」旧約聖書に記されていることが、今、主イエス・キリストにおいて実現しているのです。主のもとに招かれて進み出るとき、私たちは生きた水が川となって、流れ出る体験をするのですね。これはまた、イエス様を信じる者が受ける聖霊のことを言っています。だれでも、イエス様のもとに来るなら、例外なく、この御言葉の約束が実現します。
あなたがこの聖霊のいのちを経験するために、妨げになっているものは何でしようか。私は今回自分の身体の不具合を経験していろんなことを考えさせられました。2/1に横浜行きの予定を組み、早割高速バスチケットも購入しました。しかし歩くことすら出来なくなって、予定が狂いました。新しい状況下におかれて、ベストを尽くして対応するしかない、と思いました。焦らず、急がず、無理をしないで、一歩一歩を踏み出すしかないと思いました。また何とかしなきゃ、と頑張るのでなく、周りの人に甘えて頼ることの大切さを知りました。心組みを変える必要があったのです。
イエス様は弱い私たちを承知で招いてくださっています。だから信じる者の幸いを覚えましよう。「イエス様、あなたの聖霊のいのちの豊かさを私に経験させてください」と祈り続けていきましよう。