そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。… 」
(ヨハネ7:6-7 )
仮庵祭というのは、一年のすべての収穫、秋の果物や穀物がすべて収穫された時の収穫感謝祭です。その祭りの最初の日に朗読する聖書日課がゼカリヤ書14章でした。「見よ、主の日が来る」で始まり、3節で「主は進み出て、これらの国々と戦われる」とあり、9節では「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」とあります。
イエス様の兄弟達がこの時こそチャンス!と思ったのも不思議ありません。多くの人々が集い、王たる者に関する聖書が読まれるこの時こそ、公に自らを現すよい絶好の機会であると。ユダヤ人の理解では、人間生活において今しなければならない、というチャンスが神様から定められている と思われていました。神様から授けられたチャンスに、それにふさわしい事をしなければ生き生きと生きることが出来ない、という考え方です。
しかし、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言いました。 非常に明確な「時」の意識をお持ちでした。「これをするために、この時のために生きているのだ」という、非常に明確な人生目標というものを持っておられました。
「わたしの時はまだ来ていない」 というのは、ただ単に「親切にありがとうね。でもおまえ達の言うように、都に上って群衆に公表するチャンスはまだだ。もうちょっと待ってほしい」というような単なるデビューの時ではないのですね。イエス・キリストには、十字架にかかり地上の生涯を終え、復活して天に昇るという人生目的がありました。その「時」が来るまで、都の人混みの中でデビューしようとも、どんなに大勢の人々に説教しようとも、本当の意味では公にはならないのです。イエス様が本当の意味で公になるのは、奇跡的しるしを行うことによるのではありません。世の悪を指摘し、世から憎まれ、世から殺される時に、イエスの「時」が訪れるのです。
現代を生きる私達はこのところをどう読んで、私達の生き方に反映させたら良いのでしようか?厳しい事を申しますが、私達がこの世と同化しないこと、むしろ世の悪を指摘して、世から憎まれ抹殺されるほどに、それぞれの十字架を背負うことによって初めて、私達は公になります。証しが出来ます。ヨハネが示す信仰の芯であると言えましよう。