見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように
シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された
祝福と、とこしえの命を。
(詩編133: 1-3)
2024年カレンダーに掲げてある聖句です。主にある交わりの姿が映し出されています。教会に来るまで、縁のなかった一人ひとりが、教会という群れに属し、神の家族となって生きる姿です。教会では昔から〇〇兄弟、〇〇姉妹(表記するときは、兄か姉で表記)という呼び方をします。ま、世の中一般にはない「教会あるある」ではあります。
こうして礼拝に来て、共に座っている。老若男女を問わず、そこに座っているだけで兄弟姉妹となっている。その光景の恵みと喜びが賛美されています。そして、神様の宣言として、祝福と命が約束されています。
しかしです。多くの家族がすべて愛に満ちているか、というと現実にはなかなかそういうわけにもいきません。喧嘩が絶えなかったり、あの人とは絶縁状態なんてこともあります。この小さな群れの「神の家族」でも、そういうことがあります。「あの方の言うことに傷ついた」とか、「あの方の言動はクリスチャンとしてどうかと思います」というようなことが、牧師の耳に入ってきます。牧師としてはその度に、さらに祈らされます。若い頃、幸雄牧師にある教会員のことでぶちぶちと不満を訴えていたら「あなたは、その方のために祈りましたか」と言われてしまいました。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマの信徒の手紙12:9-12 )
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う、それが教会員同士の接し方の理想になっています。その理想を現実にするまず一歩が祈りなのです。祈って、神様のみ前で謙遜になることが出来て初めて、相手を優れた者と思うことが出来るのです。自分の優位を誇示するのでなく、へりくだって相手を尊敬することが出来たら幸いだなぁと思います。
「キリストの体としての教会」を形づくる器官には違いがあっても、上下の区別はありません。諸器官が相互に依存して初めて、それぞれの機能を発揮することが出来るようになります。そのゆえに謙遜でありつつ互いに尊重することが勧められるのです。互いに「愛し合う」ことと、「相手をすぐれた者として尊敬しあう」ことこそが教会にふさわしいことであり、それによってキリストにある神様のご栄光が現されるのです。ハレルヤ!